本当にたくさん書類がいるのです。
今日は供託金の返還の書類です。
当たり前ですが、だれでも初めての時は不慣れで、何度もやり直しになるでしょう。
そのために選挙には、選挙の専門家がいるくらいなのです。
げたは最初から最後までほぼ一人でやりました。
ポスター貼りまで一人でやりました。
選挙が無くてこの大変さなんだから、選挙があったらもっと大変なのでしょう。
議員はなってからも大変なのです。
毎日ひたすら勉強してます。
議会のこと、予算のこと、村の歴史、いろんな政策の検討など、毎日ひたすら勉強です。
村の歴史は村史を読んでいます。
村の歴史から、村の政治まで幅広く勉強できます。
村では人口が3000人になった時点で、過疎対策5年計画を3回にわたって行ってます。
その後は村史には載ってないのですが、何も対策をしてない筈はないでしょう。
大鹿村は最大人口は約5500人です。
昭和36年に大規模な災害があり、集落ごと無くなった集落もあるくらいでかなり人口が減りました、
その後もダムの建設でやはり1集落が無くなってます。
過疎対策を始めた昭和45年には人口は3000人くらいだったのですが、3回にわたる5か年計画にもかかわらず、人口は減り続け、3回の計画が終わったころには1000人もの人口が減ってます。
その後も人口は減り続け、つい最近1000人を切りました。
つまり、今までの過疎対策では、大鹿村の人口減は止められないのが証明されているのです。
このまま同じような政策を続けていけばあと10年で500人になり、その後10年ではほぼ人は残らない可能性もあります。
山奥の村である大鹿村では、村のお店や、ガソリンスタンド、車の修理屋さんなどが無くなれば、村で生活できなくなります。
ある一定の人口を切ったら、村の基本インフラの維持ができなくなります。
この時に村は崩壊します。
そしてその時はすぐそこまで来てます。
今までの対策が効いてないのですから、これからの対策は、まるっきり今までと違うやり方にならなければならないのは自明の理でしょう。
今時代は大きく変わってます。
山奥の大鹿村でもこの時代の流れには逆らえません。
今までの常識は通用しないということは、今までの非常識と思われていたようなことをやるしかないのです。
思い切った大転換なしには、この流れは変えることはできません。
そこで、「自給自足の村構想」なのです。
続きはまた書きます。
げたは1日に長くパソコンはできません。
電磁波結構きついんです。
毎日何時間もパソコンやスマホをやって何ともない人たちはすごいと思います。
電磁波も農薬も放射能も、病院の薬も、塩素の水も、多くの化学物質も、直ちに影響はないのです。
それゆえ、ついそのままになってしまいます。
しかしそれは、毎日毎日借金を積み重ねていく生活です。
いつか、確実に破たんします。
そして何でと自問しても、すでに遅すぎるのです。
ただ、これは必要な勉強なので、学校の勉強よりも楽です。