3界の狂人は狂せることをしらず。

投稿日: 2014年10月7日カテゴリー: ブログ

立花隆 生、死、神秘体験より。
人でも生物でも自分が知ってる世界だけが世界の全てだと思ってしまう。
自分に見える世界だけが世界の全てだと思ってしまう。
知らないものを「ない」といい、見えないものを「ない」といってしまう。
正しくは「ない」ではなく「私は知らない」または「私には見えない」というべきである。
しかし人間は知らないことを知らないままにしておく事には耐えられない動物である。
知らない事は何とかして知ろうとする。
しかしどんなに努力してもわからないということはあるものだ。
原理的にはそれを知る事が不可能というものがある。
しるほうほうがないということがある。
その場合健全な立場は不可知論に立つことである。
わからないことはわからないとすることである。
分らない事については判断中止(エポケー)をすることである。
しかし人は中々そういう健全な立場を取る事ができない。
そしてイソップの「すっぱいブドウ」のキツネの立場をとりがちである。
自分がとることのできないブドウはすっぱいのである。
幾ら知ろうとしても分らない事は、知る価値が無いことか、そもそも存在しないことにしたいのである。
人間の場合は手に入らないものに対して、もう一つ別の心理的対応がある。
すっぱいブドウに対して「甘いブドウ」の立場とでもいったらいいだろう。
手に入らないものがいい物かどうか分らないのに、
それはとてつもなくいいものだと思い込み、
より一層欲しがり、あこがれてしまう事である。
しかし死は全ての人に一歩一歩確実に容赦なくせまってくる、
死がまじかに迫ってくれば、
誰でも死に付いて考えないではいられなくなってくる。
エポケーなんてのんきなことを言っている場合ではないと言う気がしてくる。
年を取ると誰でも自分の死について考えずにはいられなくなってくる。
死とは何なんだろう。
人は死ぬとどうなるのだろうか。
何らかの意味で死後の世界はあるのだろうか。
それとも死は単に存在の消滅にすぎないのだろうか。
存在の消滅とはどういうことなのだろうか。
と次々に死に関するさまざまのぎもんがわいてくる。
死は人生最後のライフステージである。
あるライフステージから次のライフステージに移るとき人は通常不安と緊張でいっぱいになる。
しかもこの死という人生最後のライフステージに関してだけは先輩を見て学ぶと言う事ができない。
死にいたる過程は見ることが出来ても、死そのものは観察できない。
もちろん経験者(死んだ人)が教えてくれると言う事も無い。
手引書があってもその内容が本当かどうかは分らない。
体験を共にしてくれる仲間もいない。
人は皆いつかは自分の死を一人で死ななければならない。
死は絶対的な孤独の中でただ自分とのみ向き合うなかではじまり、完結する。
それは人生の中でもっとも孤独な体験である。

はい、考えてくださいね。
孤独の中で。
ごまかす事は意味がありません。
何らかの解決策を見つけておかないといざというときには間に合いません。
もちろんそのほうが良いのかも知れませんが。
若い人もいつまでも死の恐怖と共に生きていくなら、何らかの解決策を見つけておいたほうが楽に生きて行けます。
「甘いブドウ」でも自分が信じきれるのならそれもいいと思います。
不可知論ではこれは解決できません。
甘いブドウかすっぱいブドウかの選択しかありません。
不可知論では生きていけないのです。
救われないのです。
それでも不可知論にしか生きていけない人は本当に救いようの無い人なのです。
不可知論に生きるとはかくも壮絶な生き方なのです。
無理しないほうがいいのです。
それでも自分をごまかす事が出来ない人は孤独な救いの無い人生を精一杯生きるしかありません。
救いはあるかもしれません。

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