懐疑論者とパラノイア。

投稿日: 2014年2月8日カテゴリー: ブログ

前に生きるということを求める始めると、行きつく先は懐疑論者かパラノイアかのどちらかになると書きました。
懐疑論について誤解があるといけないので書いておきます。
懐疑論者とは反対や否定ばかりする人のことではありません。
懐疑論とは直ぐに結論に飛びつかず、ニュートラルに真実を探求する事です。
古代ギリシアでは懐疑とは心を拡げると言う事だったのです。
懐疑論者は結論に到達しようとせず、考え、求め続けるのです。
否定や反対論者は、強引に結論を出し自分の説が正しいと主張する人と同じです。
悲しい事に99パーセントはこの根拠の無い確信か、否定論者です。
彼らにとって真実はどうでもいいのです。
取り合えず主張して本を売るか、賛同者を集めます。
ほんのほとんどはこの類です。
なにしろそうだとも言えるし,そうで無いとも言えるなんて、いっても誰も本を買ってくれません。
「こうだ」と言えば意外と人は信じます。
特にこう在ってもらいたいとその人が思ってる場合は、根拠も無視して信じてしまいます。
信じないと生きられないのは分ります。
とりあえず、いわしの頭でも、石ころでも信じたほうの勝ちです。
気持ちは安らぐでしょう。
世の中はこの信じたい病の方々であふれています。
自ら魂を売り渡してしまうのです。
信じると言う事は魂を売り渡してしまう事を意味します。
この根拠の無い確信が、世の中を動かしています。
懐疑論者はひたすら地道に道を追及していくしかありません。
そしてそれは孤独な道なのです。
求める道はその人だけのものです。
お釈迦様が歩いた道は、お釈迦様にとっては真実への道だったのですが、他の人が同じ道を通っても真実には到達できません。
私の道は私だけしか歩く事ができないのです。
人に分ってもらいたいなんてのは期待しないほうがいいのです。
人に求めるのは理解ではありません。
理解ではなく、お互いがそれぞれの道を歩いていく事を認め合う事なのです。
あなたのことは分りませんが、あなたが大事に思ってることなら、私も大事にしましょうと認め合う事です。
何で私のことを分ってくれないのなんて思わないことです。
人のことは分らないのです。
もちろん分かり合えたと幻想を持つのは自由ですけど。
私はパラノイアなのかもしれません。
それでも懐疑論者として生きようとはしてます。
さみしいものなんですよ。
「魂の飢餓の叫びは誰にも届かない」誰かが言ってたような気がします。
ただし本人はいつもこんな事を考えてるわけではありません。
突き詰めればそうであるし。
なるべくそのように生きると言う事にしか過ぎません。
日常的には色んな事を信じて生きています。
生き方については、なるべく色んな事を受け入れようとは努力してます。
頭ごなしの否定はしないようにはしていますが、するときも多いのは事実です。
高いところから落ちれば痛いし、下手をすれば死にます。
このようなことに対しては疑問を持つのは結構だとも思ってますが、現実には高いところからは飛び降りません。
詰まり現実への対応と、生き方はまた別の事なのです。
仮定ではありますが、取り合えずその仮定に基づいて生きてるわけです。
あまり突き詰めないようにはしてます。
なにしろ突き詰めると生きにくくなります。
ここいらは言葉で表すのは難しいですね。
パラノイアの妄想でした。

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